20:ふたたび興味がわくのに1年かかった

「嘘だろ」
 これが降格が決まったのを知った時の私の第一声である。この日私は仕事でスタジアムにいなかった。帰宅してスポーツニュースを見た瞬間、得点した福田は無表情、笑顔で近寄った池田を払いのけるシーンが映し出されている。それだけで事の深刻さが全てわかった。当時の勝ち点システムは「90分で勝利は勝点3」「延長勝ちは勝点2」というもの。レッズが残留するにはこの試合「90分以内の勝ち」しかなかった。それが残念ながら出来なかった。
「落ちたからにはシステムを作り上げて、これぞレッズというのを見せてほしい」とレッズサポーターの父に何度も言っている。それでも怒りが収まらず、風呂場を蹴った。その日のスポーツニュースはさっきのを一度見れば十分だという思いが強く、繰り返し見る気もおきず、翌日の新聞は一切見なかった。

 そして、落ち着いてくると頭に浮かんできたのは、「来年からJ1でレッズが見られない」という現実。それまでのレッズへの情熱が冷や水で一気に冷めた瞬間であり、レッズだけではなく、全てのサッカーをみるのが面倒くさくなり、投げやりになった。見るたびに悔しさがこみあげてきていたのだ。
 私自身はこの年の2月。卒業旅行でずっと行きたいと思っていたヨーロッパに行っている。残念ながら一番の目的であった海外サッカーをみるというのはできなかった。けれども、異国文化を大いに楽しんでいる。また、ノストラダムスの世界が滅亡するという予言の年、心配するわけでもないが一応頭の隅にあった。
 4月には新日本プロレスが団体初の「有刺鉄線電流爆破デスマッチ」を東京ドームやるというので見ている。松坂大輔も西武に入団してスポーツは野球中心に回っているのを強く感じた。98年のワールドカップで初出場の日本は惨敗。サッカーの注目度は明らかに下がっていた。それでも埼玉のラジオ局やTV局はレッズ中継を毎試合熱心に生中継してくれたのはありがたかった。
 3月に卒業して社会人1年目であった。土日が休めない仕事のため、スタジアムに行くことができない。それに携帯電話で試合経過を知る時代ではなかった。レッズの成績は帰宅後のスポーツニュースで確認することしかできない。
 さらに今みたいにネットがそれほど普及していない時代でもあり、試合の雰囲気やサポーター個人の思いを知る機会は少なかった。スタジアムに行けば、その危機たる状況を肌で感じ取れたかもしれないけれど、今では行かなかった方が良かったと思っている。試合数が残り少なくなり、そのたびに悲壮感が強くなる状態。あの試合現場にいたら私はレッズサポを辞めていたかもしれないのだ。それほど緊張の糸が切れた時の反動は大きかった。
 それでも、当時スタジアムにて試合が見られない私はテレビ埼玉の「GO!GO!REDS」が唯一の心のよりどころであった。ダイジェストで見る限り、いい試合はやるけど勝ちきれない。当時レッズの攻撃の核の小野伸二が怪我をしてしまい。チームの攻撃力は落ちた。そしてファーストステージの終わった後の中断期間に監督を解任して、代理監督をたてて新監督を就任させた。その間3週間から4週間もの空白期間があったのは気になっていた。

 後任はすぐ連れて来ているものばかりだと思っていたのに一向に決まる気配がない。フロントの対応のまずさに怒りが溜まっていた。そして外国人の新監督になっても、勝点が思うように重ねられない。それを繰り返しているうちに降格ラインが見えてきた。確か10月か11月に残留争いのチームと対戦したが思うような勝点が取れなかった記憶がある。
 すでに1チームは降格が決まっており、もう一つの枠を巡って「あそこ負けないかな」とレッズの勝利よりも他力本願を強く願う消極的な応援姿勢になっていた。
 降格が決まったスタジアムでは「We are Reds」のコールがあったという。それを知ったのは数年後の話。「1999・11・27」で一旦レッズへの関心が全てなくなってしまった。ふたたび興味がわいてくるのに約1年程かかった。
 こうしてあの日の出来事にそれぞれのレッズサポーターが何かしらダメージをうけているところに、ある人が「レッズが降格しても暴動が起きないのは不思議」というような発言をしたという。
 この人を一生許さないだろうなと怒ったというのは、まだ私自身レッズに対して愛情が残っていたのである。その発言のおかげで、より深くレッズを丁寧に見てサポート続けなければと思い直して早く立ち直る機会を与えてくれたことには感謝している。それが99年当時の記憶と感情だ。日記を見ていると当時を鮮明に思い出させてくれる。
(男性/当時24歳)

カテゴリー: 未分類   パーマリンク

コメントは受け付けていません。