22:戸惑いだけがあった

 レッズの試合を生観戦し出したのは98年の後期。スーパールーキー小野伸二の活躍もあり過去最高タイの3位で終えたシーズンだけに、サポーター、そしてマスコミも翌99年への期待はいやが上にも高まった。
 ホーム駒場での開幕戦。ミスターレッズ福田の技ありゴールもあり快勝。98年の躍進でレッズを特集するなど注目していたサッカーマガジンの翌週の表紙を飾った。サッカーマガジンの記者と福田とはハットトリックなら表紙と約束していたが、達成できず本人はないと思っていた。ところが表紙!惹句が『駒場炎上』ときたもんだから本を見せられた福田は「ウソだろ~!!」と絶叫したとか。
 しかしこれが99年の頂点だったとは誰が知ろう――。後はただただ坂道を転げ落ちていくようなシーズンとなった。

 永井・岡野と二人のFWが“留学”中、新加入のFW盛田に期待したのが原監督だった。しかし彼の高さを活かす戦術を定着できずじまいだった。またエース福田をはじめ主力選手に怪我が相次ぎ、実は日本代表級の選手がスタメンに揃っていたにもかかわらず(岡野・路木・山田に加えDF西野やFW大柴らはトルシエに合宿に呼ばれているし、年代別代表では城定・石井もいた)、ベストメンバーが組めなかった。降格の原因は直接的にはそういったところだろうが、まだ「勝者のメンタリティ」もないレッズが、汚いプレハブのクラブハウスを根城に、4バックの粗い守備と高くない得点力で残留を果たすことはできなかった。

 パソコンも持っていないし、今みたくネット上で情報が飛び交う時代でもなく、『浦議』の存在もまだ知らないなかで、会場で読むマッチデーだけが頼りだった。当時はサポ仲間もいなくて「口コミ」情報も入ってこないから、移籍や怪我などは後追いで知ったし、今ほどには戦術も知らず、ましてや誰を外して誰を使えとか、起用法など考えも及ばなかった。そんな有様なので、自分はこの年ホームは全試合生観戦だったが、あれほど勝てていなくとも、あの監督クビにしろ!などとも思わず、とにかくなんでこんなに勝てないんだろうと不思議だった。

 岡野と永井が共に復帰してJ2大分相手に異次元のプレーを見せ、今後に可能性を感じさせた雨中のナビスコ大分戦。勝ったが、直後原監督は解任された。リーグ戦でのある敗戦の後、静まりかえった駒場に「原交代!」とヤジが響きわたった時も、それはないと自分は思っていたので解任は意外であり、これからなのに…と、納得がいかなかった。

 セカンドステージ、マリノスから路木、ヴェルディから中村と二人の日本代表を補強。オランダ人の監督がやってきた。しかし相変わらず結果は出ない。中断期間中に開催されたシドニー五輪予選で、伸二が悪質極まりないファウルを受けヒザの靭帯断裂の重症で離脱したのも痛かった。

 新監督は「残り試合を全部トーナメントの決勝と思って戦う」と言っておきながら、残留直接対決のジェフ戦・ベルマーレ戦でゴールという結果を残したエース福田を重要視せず、90分以内で勝たないと降格という最終節もベンチに座らせた。自分の席がレッズベンチに近い時があって、よっぽど英語で「フクダを使え!」と怒鳴りつけてやろうかと思ったくらい、この仕打ちには腹がたった。起用法うんぬんを議論できるほどレッズ自体に詳しかったわけではないが、彼がエースであり精神的支柱であることくらい誰でも判る。過去に降格したチームは、いいサッカーをしても勝てないでいるうちに自信を失い、それまで出来ていたプレーが出来なくなっていくという「負のスパイラル」に陥ることが多い。そうした危機にあってチームを鼓舞できる選手は世の中そうは多くない。その数少ない選手のひとりを、どう見たのか知らないが、あの監督はあえて外す愚挙に出たのだ。

 いつもメーンで観戦だった自分は、最終節は指定が取れずバック自由へ。ウルトラが密集する立ち見席の近くにようやくほんのわずか立つスペースを見つけた。冬の夕日がスタジアムをかすかに暖める中始まった試合は、対戦相手の広島のおかげで何とももどかしい試合になった。彼らもレッズの状況は充分わかっていたはず。そして広島は残留争い・優勝争いのいずれにも加わっていない(後期は8位)。勝とうが負けようが何がどう変わるわけでもない、そんな奴ら、レッズサポからすれば「空気読めよ!勝たせてくれたっていいじゃんよ」と思って当然だ。しかしプロの選手は違う。注目された試合、そしてシーズン最後の試合。進んで勝ちを譲るなどは考えもしないものなのだ。攻めるレッズ、ガッチリ守る広島。試合の残り時間は刻一刻と減ってゆく。

 自分の立っていたあたりのサポの一団の若い兄ちゃんたちは、交代で売店に走って買う紙パックの熱燗を何個も飲み干しながら(そうしないと寒かった!)、広島のベタ引き守備や、場内のテンションに気圧されたか、あたふたする線審に声を荒げては、もどかしい試合展開を見つめていた。コーナーキック。伸二がどうにかしてくれる――、ならなかった。次々とFWが投入されるがいっこうにエース福田にお声はかからない。ようやくあと数分というところで交代出場するが、時すでに遅し。やがて決着がつかないままフルタイムの笛。

 当時は携帯で速報をチェックしたり、ましてやワンセグで中継が見れたりできないわけで、目の前で起きていることがすべてだ。そのことについての場内アナウンスがないものだから、延長になった時点で降格が決まってしまったのだとは皆目わからない。しかし結果を知っている人間も多数いるであろうことは、場内のざわめきで想像できた。既にかなりの燗酒をきこしめしていた隣の兄貴が、誰かと電話で話した後戻ってきて、こう叫んだ。「いいよもう!ったくお前らせめて勝って終われよ!」すでに十分嫌な予感がしてはいたが、これで自分は「ああ落ちたんだ…」と知ったのだった。

 延長戦は、試合終了目前に相手陣内の混戦から福田がこぼれ球を蹴り込みVゴール。勝っても救われない虚しい試合を終わらせた。勝てばOKと勘違いしていた池田が抱きついたが福田はうつむいたままロボを振り払い、足のテーピングを外そうとしつつ、じっと下を向いたままだった。満面の笑みで、苦渋の表情の福田に後ろから思いっきり抱きつく池田の映像は、一体今まで何度TVで流れたかわからないが、むしろその後、ぺトロヴィッチが悔しさの余りピッチに倒れこみしばらく起き上がらなかったことのほうが印象に残っている。毎年、最終節ないしホーム最終戦には選手一同が場内を一周し、サポーターに感謝の挨拶をするのが定番になっているが、さすがにこの時選手はなかなか出てこなかった。着替えなどの準備もあったろう、中には泣いた選手もいただろう…、福田のように。しかしすっかり暗くなり、冷え込んだ駒場のスタンドはしだいにざわざわしてきた。既に泥酔していてもおかしくない量の熱燗を飲みきった隣の兄貴が、また叫んだ。
「おお!出てこいよお前ら!」

 やがて選手は出てきた。皆沈んだ面持ちの中、周りに報道陣が群がる福田の表情は確認できなかった。一年を通じて結果を出せず、今日も決定的なチャンスを外した盛田はかなりつらそうな顔をしていた。そして…、怪我から復帰するも万全ではなかった伸二と永井のナイジェリア組…。彼らは来年どうするんだろう。さまざまな事を想いながら、空虚な気持ちを少しでも紛らわせたくて、キャバクラでも行ったるわ!とヤケになった自分は大宮の歓楽街通称「南銀」へ向かって凍えるような寒さの中ひたすらチャリンコを走らせたのだったが、身体があまりに冷えてしまって遊ぶ気もうせ、モスバーガーで時間をつぶして帰った。やがて当時の彼女や、サッカー仲間からなぐさめの電話がぽちぽち入りだし、翌週にはメールもいろいろいただき、「春の来ない冬はない」と励まされ(笑)、「ドーハの悲劇」以来の失意にやさぐれる心をどうにか落ち着けていったのであった。

 今よりも企業スポーツ体質だったかもしれないし、クラブ全体として一貫した体制もない、強化のための効果的な方針もノウハウもない。Jリーグの短い歴史の中に限っても、既に鹿島や磐田が培っていたと思われる「勝者のメンタリティ」も、経験もない。ないないづくしの浦和レッズだった。翌2000年の二部での初シーズンは主力選手の流出もない中、補強もあり、OBの斎藤監督のもと万全な船出を果たしたはずだったが、人間とは環境に順応する動物である。当初こそ圧倒的な力の差で独走していたが、同じ敵と4回闘うリーグで次第に研究され、オフトそしてブッフバルト時代までは一度も整備されたとは言い難い守備のもろさもあって次第に敗戦が増えていった。いい試合をして勝っても、その次の節ではホームだろうが相手がどこだろうが泡の消えたビールのような試合を平気でする悪癖もなくならなかった。つくづく何もかもが甘かった。

 しかし、こうした総括は自分で当時出来ていたわけではない。後から過去を振り返れば何とでも言える。とにかくあの渦中にいたときは、なぜこうもうまくいかない、なぜ勝てない、とただ不思議なだけで、一体何が起こっているのか、まったく判らなかった。ただ戸惑いだけがあった、ということが言いたいのだ。
(男性/当時31歳)

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