「心のクラブに・・・」

「心のクラブに・・・」

 心のクラブか、と問われたとしたら、「そうではない」と答えるだろう。
 彼が務めている会社は、浦和レッズに間接的に関わる仕事を請け負っている。
 今年で32歳になる彼は、その会社に就職して4年目を迎えていた。日本の中で有数の、いや唯一と言ってもいい熱狂的なサポーターのいるプロサッカークラブの仕事に、直接的ではないにしろ関わる機会がある。それは、サッカーを愛する彼にとって、うれしく誇らしかった。
 この3年と少しの間に、当然、レッズに触れる機会も増え、試合も見ている。だから、レッズに愛着があるか、と言われれば、自信を持って「ある」と答えられた。だが、心のクラブと呼ぶにはためらいがあった。サポーターのようなそこまでの熱を、彼はレッズに持ててはいなかったからだ。

 今の会社に入ったのは、今後の自分の人生を考えたこととふとした思いつきとが結びついた結果だった。
 大学を卒業後、彼は大手のメーカーにシステムエンジニアとして入社する。だが同時に、大学時代から続けているバンド活動も行っていて、ゆくゆくはデビューし、このバンドで成功したい、そんな熱い思いも抱いていた。しかし、気づいたときには、それは難しい状況になっていた。

 仕事は常に終電の時間まで残業せざるをえず、月給がボーナスを上回るような状態だった。浪費する時間もなかったため、それなりに蓄えができていくのは良かったが、仕事をこなすだけで頭も体も疲労し、音楽活動に力を注げないことが彼を苦しめた。スタジオに行くことができず、自分のいないところで作品ができあがっていく、そのことが耐えられなかったのだ。

 そのため06年、彼は会社を辞めることを決意する。契約社員をしながら、バンド活動を中心に生活していくことにした。しかし、それも3年は続かなかった。音楽に力を注げば注ぐほど、曲作りにどれだけこだわりを持つかという点で、明らかにメンバーとの意識のズレを感じざるをえなかった。次第にメンバーとの口論などが多くなり、行き詰まりを感じた彼は、熟慮の末、バンドを解散する。
 しばらくは惰性で、契約社員の形態で暮らしていたが、当時つきあっていた女性と同棲をしていたため、将来のことも考えて、正社員として職を探すことを考える。
 そのとき、音楽に関わって食べていくという選択肢は出てこなかった。このバンドで成功したい、という思いと、音楽で食べていくということは、彼の中でイコールにはならなかったからだ。

 どんな仕事をしていこうか。そう思ったときに、ふと頭に浮かんだのが、サッカーだった。
 サッカーは、音楽と同等に彼の中の大半を占めているものだった。

 彼は中学、高校ではバスケ部に所属していた。自身がサッカーをプレーしたのは授業の体育くらいだったが、見ることは好きだった。
 Jリーグが始まったのが、中学1年生のとき。愛知県に住んでいた彼は、名古屋グランパスエイトを見て、地元に住む者として応援をしなければ! とブームに乗った形で盲目的に思う。そのため、そこまで熱狂的になったわけでもなく、テレビ観戦で応援を続ける程度だった。
 Jリーグ元年の翌94年、名古屋には、世界的にも有名なプレーヤーであるドラガン・ストイコビッチが加入し、さらにその翌年には、アーセン・ベンゲルが監督に就任する。ベンゲルは、当時こそ無名だったが、名古屋の監督を2年で終えると、サッカーの母国イングランドのプレミアリーグでアーセナルの監督に就任し、今なおトップクラブの一角を担うそのクラブで指揮を執り続ける名将となる人物だった。名古屋は、ベンゲルが監督を務めた期間、明らかにそれまでとは違った洗練されたサッカーを披露する。少しずつ変わっていくチームを、彼はブラウン管越しに楽しんでいた。

 そうしてサッカーに触れる機会を増やしていった彼は、中田英寿がイタリアで活躍するようになると、はっきりと海外のサッカーに興味を抱くようになる。
 そして、海外サッカーを見続け、FCバルセロナと出会った。たぐいまれなテクニックを持つロナウジーニョが所属し、オランダの名選手だったフランク・ライカールトが監督として指揮を執った時代。そのとき初めて見た次元の違うスペクタクルなサッカーに、彼の感情は大きく動かされた。
 それからはバルセロナに傾倒していき、見られる試合は必ず見るようにした。

 そして最初に就職した会社を辞め、ひと月たった06年の5月。それなりの貯金があった彼は、離職した開放感も手伝って、フランスのパリで行われたチャンピオンズリーグ決勝を見に行く。バルセロナとアーセナルの対戦となった、願ってもない試合だった。ツアーの費用は、飛行機代、宿泊代、そしてチケット代など合わせて40万円を越えたが、夢にまで見たバルセロナの試合を、しかも欧州王者を決める戦いを目の前で見られるのなら高くはないと思っていた。
 だが、ここでアクシデントが起こる。旅行代理店が頼んでいたチケット会社が人数分のチケットを確保できず、結局、スタジアムに入れなかったのだ。もちろん、ツアー代金は全額返ってきたが、彼はその試合を生で見ることはできなかった。

 だが、そこからが楽しかった。
 決勝は、パリにあるスタジアム、スタッド・ドゥ・フランスで行われた。彼はその敷地内に併設されているバーで、しかたなく試合を見ることにした。すると時間とともに両チームのサポーターが興奮し、喧嘩を始める。収拾がつかなくなるほど大きな騒ぎになり、最後はバーの店主が怒りにまかせ、客を全員店から追い出してしまったのだ。当然、彼も店の外に出ざるを得なかった。困っていると、バーのガラス張りの壁から、店の奥に試合が放映されているテレビが見える。そしてそれに気づいたサポーターが、そのガラスにへばりついて、食い入るように試合を見ていた。大の大人がガラスにへばりつく様子はなんとも異様な光景だったが、雨が降ってもかまわず見続け、点が入れば発煙筒を炊く輩もいた。
 その光景が無償に楽しかった。サポーターとはこういう存在なのか、彼は初めてその熱を肌で感じとっていた。

 そうした、さまざまな経験の蓄積が彼をサッカーに引き込んでいくことになった。
 だから、ふとした思いつきではあったが、サッカーに関われる仕事に携われたら楽しく働いていけるのではないか、そんなことを思い描いた。
 そして、インターネットの就職サイトで「サッカー」と入力し、表示された今の会社に面接を申し込むと、縁があったのか、とんとん拍子に就職を決めることができた。

 埼スタでレッズの試合を初めて見たのは、それから数か月後、09シーズンのレッズのホーム開幕戦だった。3月14日のFC東京戦。イベントの手伝いのため、埼スタにいたのだが、同僚から「一度しっかりと入場シーンを見ておいた方がいい」と言われ、時間寸前に、メーンスタンドの脇に走り出ていく。ファーストインプレッションズが鳴り、選手がピッチに姿を現した。そのとき、真っ赤なゴール裏には、「GO REDS GO」のコレオグラフィーが浮かび上がっていた。
 圧倒的だった。思わず、これが日本なのかと疑ってしまうほど心が揺さぶられ、目頭が熱くなる自分を抑えることができなかった。それまで、レッズとの関わりはほとんどなかったのに、なぜかその光景に感情を抑えることができなかった。

 彼はその後、念願かなってバルセロナのホームゲームを見てもいる。バルセロナファンとして、夢にまで見たカンプノウに足を踏み入れ、メッシやシャビのプレーを堪能した。今でも、あのサッカーを生で見たことは、一生の宝物だと思う。
 カンプノウのファン・サポーターの雰囲気も独特ですばらしかった。それぞれが、じっとサッカーを見て、良いプレーには拍手をする。ゴール裏でチャントなどをしている集団もあるにはあったが、全体のその大人びた雰囲気が、Jリーグで見るようなものとは違っていて格好良かった。

 だがそれを見たからこそ、それでも埼スタで感じたあの一体感、あのカタルシスは、それとは違う次元の比べられないすばらしいものだとも思った。

 彼は、レッズサポーターを見て、幸せだろうなと思う。おそらく、自分はバルセロナと日本代表が戦ったら、どちらを応援するか迷ってしまうだろう。
 だが、レッズサポーターなら、バルセロナとレッズが対戦したとして、仮にその人が自分と同じような熱狂的なバルセロナのファンだったとしても、レッズを応援することにためらいはないだろう。
 パリで見た彼らも同じだ。雨の降る中、ガラス越しの、遠くの小さなテレビ画面を食い入るように見ていた彼らは、なんだかとても幸せそうに思えた。1チームにフォーカスして応援できること、その出会いを持つこと自体が特別なことなのだと思う。

 彼はこうも思っている。
 もし、あのカタルシスの中で、カンプノウで見たようなサッカーが見られたら、と。
 もちろん、バルセロナのような領域のサッカーをするなど、今後何十年と掛かってしまうかもしれないし、現実的ではないかもしれない。

 だが一方で、今季のホーム開幕戦。柏レイソル戦の前半を見たとき、ピッチの中の現象に少なからず心を動かされる自分がいた。この先には、自分が求めるようなサッカーが展開される可能性があるのではないだろうか、と。
 あのカタルシスに、あのピッチ上から発展したサッカーが展開される。もしかしたら、そのとき、ようやく自分も心のクラブに・・・。 
 柏戦後、彼はそんなことを考える自分を感じていた。
                              <了>

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