携帯時代

これも書きかけて中断していたものの一つ。
 友人たちが「文字にしておいた方がいい」と口をそろえて言うので書いておく。

 まだスマホでなく携帯電話だった一昨年のある日のこと。地下鉄丸の内線に乗っていて銀座駅で降りた。ホームから階段を上り、自動改札を出て出口に向かった。
 ジーンズの尻ポケットに手をやると、いつも入れておく携帯電話がない。

 僕は、携帯を尻ポケットに入れていることが多い。着信音を小さくして振動で気づくにはそれが一番だから。ただ、そのまま座って壊したことが2回あるから、座るときは尻ポケットから出す。今回もそれだと思って、上着のポケットを探したが、ない。
 地下鉄では座っていたから尻ポケットから出したことは間違いない。席が空いていたので、上着のポケットに入れず、横に置いて、そのまま忘れたのか!

 ホームからは電車が出ていく音がしている。もう戻っても無駄だ。迷わず近くの窓口に向かった
「今の電車に携帯電話を忘れました」

 地下鉄の駅員が時刻表らしきものを見て確認する。
「○時○分発の電車ですね。忘れた、だいたいの場所はわかりますか?」

「4号車か5号車、すぐそこの階段付近の車両の、前から2つめのドアだったと思います。ドアから見て左側、進行方向左の座席に座っていました。そこに置き忘れたと思います」
 早ければ、次の駅で回収してもらえるかもしれない。俺は、速やかに状況を報告した。

「携帯電話の色は何ですか?」
「黒の二つ折りタイプです」
 一つ聞かれたら附随することも答える。これで手間が省けるだろう。俺って実に扱いやすい客のはずだ。

「携帯電話の機種はわかりますか?」
 機種? 機種まではわからないな。
「メーカーはSONY ERICSSONです。機種は…」
 実物を見て確認するしかない。俺は左手の中にあるものを見た。たしかに「SONY ERICSSON」と書いてある。機種名はどこに書いてあるのだろう……、ん? いま俺が見ている、この手の中にあるのは何だ?

「…ありますね…」
 間抜けな言葉だが、それしか言いようがなかった。駅員も繰り返す。

「ありますね」
「すみません。お騒がせしました」
 丁寧に詫びて、その場を離れた。 

 恥ずかしい。あの駅員に対してももちろんだが、自分に恥ずかしかった。
 思えば地下鉄を降りるときから、ずっと携帯は左手に持っていたに違いない。身体じゅうのポケットを探す時には携帯を持ったままポンポンとしていたのか。よくメガネを頭に乗せてメガネのありかを探すという笑い話があるが、あれよりもっと馬鹿馬鹿しい。メガネをかけたままメガネを探すようなものなのだから。

 駅員は、俺の携帯電話を見ながら対応していたのだろう。だとしたら(このオッサンは、携帯を2つ持っていてそのうち1つを忘れたということだな)と善意に解釈していたに違いない。現物を手に持ちながら「携帯を忘れました」などと届ける阿呆がいるはずはないから。
 いいよ。職場の笑い話にしてくれていい。

 なんだろう、歳のせいだろうか。
 こんなことが二度とないように気をつけよう、と言うのも無意味なほどあり得ない“うっかり”だった。
 だが歩きながら思った。

 そうだよ。俺はやっぱり携帯を地下鉄に置き忘れるような間抜けじゃないんだ。そこをポジティブに考えよう。
 

 
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