原点

 俺がものを書く仕事に就きたいと思ったのは、大学の途中からだ。

 高校生のころは、何となく法律関係に進みたいと思っており、一浪して大学の法学部に入学したのだが、司法試験という壁の高さを見て、一度も挑戦することなくやめた。
 挫折という表現すら当たらないほど簡単な方向転換だった。本当に“何となく”思っていただけだったのだ。
 じゃあ何をしたいのか、と自分に問いかけるまでもなく、ものを書く仕事を目指すことにした。

 本を読むのが子どものころから好きで、小説家もいいな、とはずっと思っていた。だが長じるにしたがい、自分に創作能力はない、と自覚するようになった。アレンジはできそうだが、ゼロから創り上げるというのは無理だ。
 ただし、誰かの話を聞いたり、自分の経験を振り返ったりして、これを本にしてもっと広く面白く伝えたい、という気持ちになることは多かった。

 そんなことを最初に思ったのは中学3年生の秋だった。
 1学期が終わる直前、音楽の先生に呼び出され音楽室に行ってみると、同じ3年生の男たち10数人が同じように呼ばれて集まっていた。そこで別の音楽の先生から「秋に石川県の中学校合唱コンクールがあるのだけれど、うちの合唱部には女子生徒しかいないから、混声合唱ができない。

みんな、そろそろ部活動も終わるころだから、夏休みから2学期の途中まで、合唱部に入ってこのコンクールに出てみないか」という勧誘を受けた。
 1学期の期末試験で音楽の歌唱テストがあった。その中で歌のうまい男子生徒を、音楽専科の女性教師2人でチェックしていたのだ。あれは合唱部の一次試験でもあったのか(笑)。

 加賀市立錦城中学校の運動系の部活動は、1学期の終わりに市の大会があり、それで勝つと夏休み中の8月上旬に県大会がある。それで3年生は卒業、というサイクルだった。俺の入っていた剣道部は、たしか学校の大会以外に警察主催の大会も8月にあったと思うが、それでも夏休み明けからは「学業一本」の予定だった。それが秋までまた部活動が続くというのは、全くの想定外だった。
 だが、合唱部に入ることにあまり迷いはなかった。母親は高校受験のことを心配していたが、それは何とかなる、と説得した
 まず歌が好きで、ある程度自信があった(そのころは)というのが根底にあったし、150人くらいの3年生男子の1割くらいの中に選ばれた、というのもうれしかった。
 そして、きっと多くの読者は「合唱部には女子生徒がいっぱい、というのがキモだったんだろう」と思っているに違いないが、それはハズレ。一番の動機は、合唱部の顧問の先生だった。

  顧問の先生は、俺が2年生のときのクラス担任だった。正確には知らなかったが、たぶん大学を出て1年目か2年目の若い人だった。俺たちはだいぶ迷惑をかけたと思う。13~14歳のガキどもが若い女性教師をナメてかかるのは仕方がないことかもしれないが、職員室で「どうも、あなたのクラスは…」と他の先生から嫌味を言われて泣きたくなったこともあるのではないか。
 だが先生は、そんな俺たちに阿(おもね)るでもなく、抑え付けるでもなく、しっかり、かつ優しく対応していたと思う。クラスが決定的に荒れずに済んだのは先生の力だった。
 そんな先生を俺は尊敬していたし、前年、迷惑をかけたことを、合唱部に入ることでいくらかでも償えるなら、という気持ちがあったのだ。もちろん、そんなことは先生にも母親にも言っていないが。

 合唱の練習というのは、もちろん初めてで、腹式呼吸や発声練習から始まって、同じ曲を何度も何度も歌う。剣道なら練習中に一本取った取られたで結果のようなものが出るが、合唱は練習ではなかなか結果が見えない。自分ではうまく歌えたと思っていても、先生はなかなか良い顔をしない。
 ふざけんな、と思うこともあったが、テープに録音して聴いてみると、ハーモニーが少しずれていたり、高音部分が上がり切っていなかったりと、未熟さを思い知らされた。

 途中、1人か2人の男子は辞めていったと思うが、混成二部合唱ができるだけの男は残り、練習は続いていった。たしか曲は、「山の祭り」と「日本の秋」だった。前者は課題曲で、後者が自由曲だったのではないか。前者はコンクール本番で、他の学校が演奏するのを聴いて「うめえなあ」と感心した記憶があるからだ。当時、そんな会場は一つしかない、金沢観光会館。そこで、出番を待つ間に、「そうか、こう歌うのか」と思ったものだ。
 そんなくらいだから、俺たちの合唱部は最優秀賞にはならなかった。どんな賞だったかは忘れた。先生に栄冠をプレゼントできなかったことは残念だったが、3か月程度の練習で、ずっと練習してきた他校に勝てるほど、甘くはないだろう。とりあえず、混声二部合唱でコンクールに出る、という先生の目的を達成するお手伝いができたことだけで良しとするしかなかった。

 合唱コンクールが終わると、本当に受験一本になる。数十人で一つのことに取り組んでいた毎日だったのが、学校が終わるとまっすぐ家に帰る生活になる。そこで初めての経験をした。
 吉田拓郎の「祭りのあと」はまだ発表されていなかったが、正に「祭りのあとの寂しさ」だった。
 2年半みっちりやった剣道部のことより、3~4か月しかやらなかった合唱部のことが思い出されてならなかったのは、最近までやっていたからでもあるが、期間が短く「合唱コン

クール」というはっきりした目標に向かって一気に駆け抜けたようなものだったからだろう。もちろん、先生とあまり会えなくなるのが一番寂しかったのだと思うが、それと同じくらい駆け足で過ぎた合唱部の3か月が懐かしくて仕方なかった。ボーっとする時間が長くなった。

 家に帰って参考書や問題集を開いても、あまり身に入らない。さすがに、こんなことではいけない、と感じた。
 どういうはずみだろうか。
 そうだ、合唱部の数か月のことを小説に書こう、と思った。毎日、同じことを思い出してはボーっとするよりは、そのことを小説という形で残しておけば、いいんじゃないか。そう考えると気が楽になった。たぶん、それまでは徐々に思い出が薄れていくのを恐れて、自然と毎日頭の中で反芻していたのだろう。
 だが文字にすれば、たとえ忘れても残すことができる。あの数か月のことは、他人が読んでも面白いんじゃないか。よし、書き残そう。
 おかしなもので、そう決意すると、気持ちが楽になった。それまでのように、毎日思い出に浸って勉強が手につかなくなることはなかった。結局、小説としてまとめることはなく、俺の処女作にはならなかったが、このときが、何かの出来事を題材に他人に読ませる文章を書こうと真面目に思った最初だったと思う。

 それ以来、頻繁ではないが、ちょっと面白いことに出会うと、そのことを文章にしたい、と思うようになった。そして徐々に、自分のことではなく、他人のことが対象になっていった。
 大学浪人時代。同じ下宿に住んでいた浪人仲間から、彼の生まれ育った複雑な家庭環境を聞く機会があった。そして両親が頑張ってここまで大きくしてくれたんだし、まだ小さい弟妹たちもいるのだから、自分は絶対に弁護士にならなければいけない、という彼の強い決意を聞き、こいつの家族のことを本にしたい、と思った。ちなみにその友人は、志を折らず京都大学の法学部に入って弁護士になっている。

 大学に入ると、高校時代までより、一気に交際範囲が広がった。大学の友人や、その友人はもちろん、アパートの近くのスナック喫茶(懐かしい響きだ)に集まる人たち、アルバイト先の大人たち、政治家、出会う人たちそれぞれに、それまでの俺とはまったく違う人生があり、まったく違う生き方をしている(当たり前だが)。
 正確に言うと、文章だけでなく、映像でも写真でも音楽でも良かった。媒体を使って広く人々に何かを伝える仕事をしたい、という気持ちが大きくなっていった。
 その中で最も好きであり、特別な道具や機材がいらないのが文章を書くことだった。
 そんなことがあり、今こんな仕事をしているわけで、かつて

書いた拙作「浦和レッズがやめられない」は、正にそんな本だった。

 先日、その原点を久しぶりに思い出させてくれる人に出会った。
 時には、レッズともサッカーとも直接は関係ない分野の仕事も舞い込んでくる。その取材でお会いした人の話を聞いて、こちらからお願いして書かせてもらいたいくらいに心を動かされた。その人がレッズファンであり、試合に行ったときはMDPも読んでくれていることは、俺の自己紹介をしたときにわかった。
 自分の原点を思い出させてくれた人に、感謝している。

 2月7日から指宿。少し若返った気分でキャンプの取材ができるかもしれない。
(2014年2月5日)

 
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